私たち人間は、「意味の空間」の中を生きている。それはちょうど、私たちの身体がこの地球上の特定の物理的環境の中で生きているのと同じだ。つまり人間とは、物理的環境の中を生きると同時に、意味空間の中をも生きているという二重性を持った存在である。
だが、急いで付け加えるなら、その二重性は人間に固有のものではない。アリであろうがミミズであろうが、彼らにも彼らなりの「意味空間」があるからだ。
無論、彼らにとっての意味は、「採餌」や「繁殖」といった原初的目的を達成するためのものであり、われわれ人間のそれに比べれば圧倒的に単純ではあるが。
そしてわれわれ人間の意味空間の複雑性は、(アリやミミズのように)生得的・本能的に各個体へ付与された基盤をベースとしながらも、教育や各個体の経験を通して複雑化し、重層化していくところから生じる。
だから、人によって意味空間は異なるし、あなたの今と10年前の意味空間もまた異なり得る。かつては好きだったものを今は嫌う、といったことなど日常茶飯事だろう。
ハイデガーは、彼の実存哲学の展開の中で、「各種事物に意味を付与していく」という人間行為そのものを「投企」という概念で説明した。
例えば、誰もいない森の中で大樹が倒れる音には、それ自体として何の「意味」もない。しかしあなたがその音を聞いた瞬間、「荘厳だ」と感じたなら、そのときあなたはその音に一つの意味を付与したことになる。つまり、その音の意味をつくりだしたのはあなたであり、あなたが行ったのは、その対象事物に意味を投げかけるという行為だったのである。その意味であなたは、その音に「荘厳」という意味を投企したことになる。
さて、この投企は確かに一人の人間が行う行為ではあるが、その内容には他者が大きく影響する。
「私、これ嫌い」「あいつとは付き合っちゃダメだよ」といった他者の声を聞けば、なんとなくその対象が「嫌だ」という気持ちになってくる。つまり投企とは個人的行為である以上に、そもそも社会的行為なのである。
そして社会的である以上、それは政治的でもある。
例えば、クラスの「いじめ」を考えてみよう。ある日までAさんはいじめられていなかった。しかしある日突然、何らかのきっかけで「あの子は悪い子だ」とされたとする。これはつまり、そのクラスを支配している意味空間が、Aさんに対して投企する意味を「普通の子」から「悪い子」へと転換したということだ。
ここで仮にAさん自身の本質が何も変わっていないとしても、それはほとんど何の意味もなさない。「悪い子だ」という意味が集団的に投企された瞬間、その信念を補強するあらゆる物語が用意され、これまで普通だった行為のすべてが「生意気」と解釈され始める。なぜなら「悪人」にはあらゆる資格が与えられなくなるからだ。
結果として彼女は、これまでと同じ振る舞いを許されなくなる。もがけばもがくほど評判は下がり、嫌悪と憎悪が蓄積され、またたく間に「いじめ」と呼ばれる状況が形成される。
つまり彼女は、クラスの意味空間における制空権を何らかの形で握らない限り、自力でその空間から脱却することが難しくなる。そしてそれができない限り、彼女の基本的人権は蹂躙され続け、最悪の場合には死に追いやられる。これこそ、いま日本中の学校で起こっている「いじめ」の実態だ。
だからわれわれ人類は、人々の投企の内実を決定づける「意味空間」における覇権を、絶えず管理し調整し続けなければならない。いわば、人類が政治的存在であるという言葉の最深部の意味は、この社会的に共有された意味空間と投企をめぐる闘争・協力・共闘の政治力学から抜け出し得ない存在であるという点にある。
そこに不調が生じれば、瞬く間に深刻な危機が勃発する。国家間対立も例外ではない。イランやウクライナをめぐる戦争もまた、この構図の内にある。社会は人々の行為によって動き、その行為は投企内容に依存し、その投企内容は意味空間に直接依存しているからだ。
だから政治家は言葉を徹底的に大切にせねばならない。そしてジャーナリズムも言論も、とりわけその根幹に位置するアカデミズム(学術)もまた、最大限の自己反省可能性を携えながら、真摯な態度で一言一言を紡ぎ続けなければならない。
かくして、われわれの日常に平和をもたらすのも災禍をもたらすのも、直接的には政治家に責任があるように見える。しかし、市井の民の意味空間の組み替えに直接影響し得るジャーナリストや言論人は、やはり甚大な責任を負っている。そしてさらに言えば、そのジャーナリストや言論人に「意味空間の組み替え」の契機を与え得る学術界の学者たちは、本来的にはそれ以上に深い責務を負っていると言わねばならないのである。


























