奄美の南端、加計呂麻(かけろま)島の磯の上で夜空を見上げた時のことである。空気が恐ろしく澄んでいて、天の川が文字通り「川」のように見える。その中に白鳥座がある。
私には、それが一目で分かる。デネブを尾として、胸、左右の翼、頭へと星をたどれば、大きな十字が浮かび上がる。一度そう見えてしまえば、そこにはもう、ありありと「白鳥」が見える。
ところが、一緒にいた学生たちに「あれが白鳥座だ」と説明しても、なかなか分かってもらえない。「あの星が尾で、あちらが翼で……」といくら説明しても、星は見えるが白鳥は見えないのだ。一人などは夜釣りをしながら朝まで探したというのだが、結局分からなかったという。
実に興味深い話だ。彼らにもデネブも翼の星も頭の星も、同じように網膜に映っているはずである。にもかかわらず、私には「白鳥」が見え、彼らには「星々」しか見えない。
つまり、「目に入っている」ことと「見えている」こととは、全く別なのだ。
このことを考える上で重要なのが「ゲシュタルト」という概念だ。ゲシュタルト心理学が示したのは、人間は世界を個々の要素の寄せ集めとしてではなく、一定の「まとまり」や「形」として知覚している、ということである。
有名な「ルビンの壺」では、同じ図形が白い壺にも、向かい合う二人の横顔にも見える。図形は何一つ変わっていない。変わったのは、われわれの側の「見え方」である。白鳥座も同じだ。星々を一つのまとまりとして捉える「形」が成立した瞬間、初めて白鳥が現れる。
これに通ずる問題を、ハイデガーは「理解や解釈の構造」として論じた。われわれは何の前提もない真っ白な精神で世界を眺めているのではない。何らかの「先行理解」(先入見)をもって世界に接し、物事を「何かとして」理解している。
だから、「先入観を捨てて事実だけを見よ」というのは、土台無理な話なのだ。先入見がなければ、事実が何を意味するのかが「見えない」のである。
ここで改めて夜空の「白鳥座」から少し離れて、われわれの「娑婆」の問題を考えてみよう。
例えばデフレ。企業の売上げが落ち、賃金が上がらず、人々が消費を控え、企業も投資を控える。価格と所得がさらに下がる。個別に見れば無数の経済現象だが、相互に結びついた一つの循環として捉えた瞬間、「デフレスパイラル」という一つの「形」が浮かび上がる。
防災も同じだ。海溝、断層、過去の巨大地震、低地の都市、堤防、老朽化したインフラ、人口構成、物流網、電力網。一つ一つは単なる「事実」だが、その関係を一つの全体として見れば、まだ起きていない「巨大災害」の姿が浮かび上がる。
安全保障も然り。軍事費、兵器、資源、人口、海上交通路、同盟、領土、外交関係。これらの「星」は毎日のように目に入る。しかし、「星」が目に入ることと、その星々が形づくる地政学的リスクが「見える」こととは違う。
ここに危機というものの本質がある。
危機というものはそれ自体が見えるものではない。津波は襲来すれば誰にでも見える。戦争も始まれば誰にでも分かる。経済恐慌も企業が次々倒産する段階になれば説明は要らない。しかし、その時にはもう遅い。
危機への備えが意味を持つのは、危機そのものがまだ「見えない段階」なのだ。つまり我々が持たねばならない危機に対する態度とは、夜空に散らばる無数の星から「白鳥」を「見て取る」という、すこぶる能動的な姿勢なのだ。
しかも危機には「星座早見盤」などない。間違ったゲシュタルトを持てば、存在しない危機を見てしまう。陰謀論はその典型だ。逆に、必要なゲシュタルトを持たなければ、危険の徴候がいくら並んでいてもなにも見えやしない。
だから必要なのは「事実をありのまま見ること」ではないのだ。如何なるゲシュタルト、すなわち先入見によって世界を見るのかを自覚的に選択し、それが自らの幸福、社会の安寧につながっているのかを絶えず検証し続けることなのだ。
ここに哲学というものの本質的かつ実践的な意味がある。
現代社会では情報そのものは有り余っている。スマートフォンを開けば世界中の「星」が絶え間なく降ってくる。つまりわれわれ現代人に今不足しているのは情報ではない。数々の星々の中から、そこに潜む「星座=ゲシュタルト」を見て取る力なのだ。
デフレも、巨大地震も、国家的危機も、それ自体が「白鳥座」という文字を掲げて現れやしない。その全ての要素は無数の小さな事実として既にわれわれの目の前に散らばめられている。それをただの星として眺めるのか。それとも、そこに一羽の白鳥を見ることができるのか。
南国の磯の上ならぬこの娑婆に生きる我々は、常にそれを問われているのである。






























