「これは忘れられた戦争で、人道に対する組織的犯罪だ!」
 国連特別報告者トーマス・アンドリュースが記者団を前に怒りを爆発させたのは2年前のことだった。
 世界の関心は今や、中東情勢やウクライナ戦争に集まっている。しかし、血みどろの「忘れられた戦争」が、日本と馴染みが深いアジアの仏教国ミャンマーで今もなお続いている。
 ミャンマーでは2021年2月に国軍がクーデターを強行し、10年近く続いたアウンサンスーチー女史が率いた民主政治が崩壊。その後、実質的な国家元首の地位についたミン・アウン・フライン前国軍最高司令官は独裁的な軍主導体制を続け、民主派や少数民族武装勢力への攻撃を激化させている。
 メディアや現地ネットワークの推計によると、これまで10万人以上の軍・抵抗勢力・民間人が死亡したという。軍によって殺害された民間人は国連が確認できただけでも6,000人超。実際には「万単位に近い可能性が高い」と専門家は見ている。
 国内避難民も370万人以上に膨れ上がり、人口の約2割が深刻な飢餓状態に直面している。まさに人道的危機だ。
 そんな混迷の中にあって、自宅軟禁下のアウンサンスーチー氏の健康状態、国民からの支持、英米との関係、そして中国・ロシアの軍事支援の思惑は、ミャンマーの政治的未来を左右する要因として再び注目を集めている。

スーチー氏は今も希望の象徴


 スーチー氏は今もミャンマー国民にとって特別な存在だ。
 父は「独立の父」と呼ばれるアウンサン将軍。若き日に英国の名門オックスフォード大学留学中に出会った英国人学者と結ばれた。彼女のあふれ出る知性と毅然とした態度は、軍政下で抑圧されてきた人々にとって逆境の中で今なお消えない希望の光となっている
 彼女の演説は静かだが人々の心に響き、国民にとって「母のような存在」だといわれている。都市部の中間層だけでなく農村部の女性たちにも深い共感を呼び、国民の支持は単なる政治的人気だけではなく深い信頼に基づいている。
 国際社会との関係では、ノーベル平和賞受賞者のスーチー氏は特に英国と米国から強い支持を受けている。特に彼女と夫の生活拠点である英国は、民主化運動の精神的支えとして支援を続けた。米国はスーチー氏を「民主主義の象徴」と位置付け、制裁と外交圧力を通じて軍政に対抗した。オバマ政権期にはホワイトハウスでオバマ大統領との会談が実現し、スーチー氏の民主化への献身が称賛された。しかし、少数民族ロヒンギャ迫害問題をめぐり、欧米の評価は揺らぎ、スーチー氏自身も国際的批判の渦中に立たされた。
 それでも国内では、彼女への支持は揺らいでいない。国民の多くは「軍政と国際社会の板挟みになった結果」と受け止め、彼女の政治的責任よりも軍政の強権的政治を批判している。


国軍の現状と大国の思惑


 だが、現在81歳と高齢になったスーチー氏の健康状態は内外で深刻な懸念を呼んでいる。
 2026年8月、5年ぶりに赤十字国際委員会(ICRC)代表との面会が実現したことは大きなニュースとなった。だが、所在や医療体制は依然として不透明だ。
 国軍が面会を許可した背景には、国際的批判の緩和と同時に、スーチー氏の健康悪化が政権にとって政治的リスクになっているという事情がある。
 彼女の死去は民主化勢力の象徴喪失を意味する一方、国軍に対する国内外の反発を激化させる可能性が高い。現在の戦況は、反政府組織が勢力を強めて国軍拠点の陥落が続いており、国軍は士気の低下と補給線の寸断が顕著になっているという。
 クーデターで独裁政権を樹立すれば、欧米から厳しく非難され、経済にも悪影響が出ることは百も承知だろうと思うのだが、権力の亡者は理にかなわないことを平気でやる。執念に捕り憑かれているから見境がない。
 そして、それを支えているのは中国とロシアだ。両国は地政学的思惑から国軍に対し武器供与や訓練支援を続けている。
 中国にとってミャンマーは、インド洋へ抜ける戦略的ルート「中国・ミヤンマー経済回廊」の要衝であり、港湾開発やパイプラインの安全確保は国家戦略の一部だ。軍政との関係維持は、これらのインフラを守るための現実的選択である。クーデター後、真っ先に外国要人としてミャンマーを訪問したのは中国の王毅国務委員兼外相(当時)だった。
 軍事産業の輸出先確保と外交的影響力の拡大を狙うロシアも負けてはいない。ウクライナ戦争中にもかかわらずラブロフ外相がフライン国軍司令官(当時)と会談。ウクライナ戦争で孤立を深めるロシアにとって、ミャンマー軍政は貴重な友好国であり、武器の供与はその象徴である。ロシアは国軍士官の訓練など軍事協力を通じてアジアでの存在感を維持しようとしている。
 まさにリアルポリティクの典型例だ。ミャンマーの未来は、スーチー氏の処遇、反軍勢力の連携、そして中国・ロシアがどこまで軍政を支えるかにかかっている。
 日本にとっても難しい局面だ。かつてビルマと呼ばれたミャンマーとは長く濃密な経済協力の歴史がある。欧米諸国が国軍に対する制裁を強めても、日本政府は「軍政を承認しないが、完全に切り捨てない」という曖昧な姿勢だ。国内メディアの関心も低い。
 そんな姿勢にミャンマー国民の間では、日本に対する失望感が広まっている。