「哲学」とは何なのか――この問いに対して、本指南書では、至ってシンプルに「考えること」であると連載冒頭で示した。
では「考えること」とは何かと言えば、「思考をめぐらす、あれこれと思量し、事を明らかにする」(広辞苑)というものなのだが、そうした試みは煎じ詰めて言うのなら「言葉」を用いた内的な精神活動、心理活動だということになる。
ただし、その内的な精神・心理活動は論理を度外視したものであっては「考える」事にはならない。そうだとするなら、「考える」ということは論理に基づく言語操作であるという見方が成立することになる。
かくして哲学の総体は「考える」ことの総体なりとの立場に立てば、哲学とは畢竟、「論理的に語りうる物事について語り尽くさんとする試み」に他ならない――。
20世紀初頭、このように考えた一人の天才哲学者がいた。その人こそ、若き日のルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインであった。彼はこの想定に基づき、『論理哲学論考』という、7つの命題とそれらのサブ命題から構成される命題体系を作り上げ、それを書物として世に出した。そして彼はその最後で次のように述べた。
「命題7 語り得ぬものについては、沈黙せねばならない」
本書はもちろん、この命題とともに幕を閉じ、彼は「沈黙」する。彼は命題6までで語り得るもの全てを語り尽くしたからだ。そして彼自身、この命題7を書き記した以降、哲学そのものについて「沈黙」し、(彼が宗教哲学日記に印している”神の啓示“を受け、再び語り出すまでの間)一切の哲学的言説の公言を自らに禁じた。事実彼は、この『論理哲学論考』の緒言にて「私は、(著者注:論理哲学上の)問題はその本質において最終的に解決されたと考えている」と述べた。
ただし、この最終命題の直前の命題6で語られているのは「神秘」の問題であった。それは明確に「語り得ぬもの」であり、論理的に言葉で明晰に語り得るものではない。しかし、この書の命題6に至るまでの論理的構造物を一段一段駆け上がって初めて、読者は、「言葉と論理」の力だけを用いて、「言葉と論理」に拘泥しがちな自身の「精神」を、逆説的にもその「言葉と論理」から解き放つことになる。そうして初めて、その精神は、「神秘」という圧倒的な存在に直接対峙し、あたかもそこから放たれるまばゆい光を浴び、溶け出す如くの体験を得るのである。
これはつまり、考えに考えつくし、森羅万象を徹底的に論理的に語り尽くした果てに、我々はそれでもなお語り得ぬものとして「神秘」の存在に立ち至ることになることを意味している。
我々は、「考える」時にどうしても「論理」の力を借りざるを得ない。AがBであり、BがCであるのなら、AはCなのだという形式的論理を壊してしまい、AがBであり、BがCであるにも関わらず、AとCは別物なのだということを認めてしまえば、あらゆる金銭の計算も、建築も土木も、組織運営も法的秩序の維持もできなくなる。
しかし我々は、金銭計算や建築や土木、組織運営や法的秩序の維持のためだけに生きているのではない。長く続いた寒い冬がようやく終わりを告げかけたときに道ばたに咲く一輪の花を見た時、我々の精神の内に、論理哲学を駆使する領域とは異なる領域にて、言いえぬ思いが浮かび上がる。その思いは、隣で歩く愛する人に「ほら、あそこ、花が咲いている」という「言葉」を我々に投げかけさせる。
確かにその言葉は、「Look there」という命令文であり、「A flower」が「blooming」という状態にあることを描写する論理の構造を持っている。しかし、彼が道ばたを歩くその文脈で発するその言葉と、花売り商売のために商品を仕入れようとしている人が発する同じ言葉とでは、全く「意味」が異なっている。
後者には神秘の影はない。しかし、前者はそこはかとない「神秘」の影を宿している。
つまり我々は、言葉を論理を駆使するためだけに弄しているのではないのだ。考えるとは言葉と論理だけから構成されているのではないのだ。
言葉は例えば、まさに「詩」にも活用されるのだ。
そして詩を語る人は確かにその詩について「考えて」いる。道ばたで花を見つけたその人も、その花について「考えて」いる。つまり、「考える」とは確かに言葉を使うことではあったとしても、決して言葉は論理だけに支配されるものではないのだ。詩を手にすれば我々は「神秘を語る」ことが許される存在でもあったのだ。
ウィトゲンシュタインは長い沈黙の後、神の啓示を受け、この当たり前の事実を見いだす。そして後期において彼は詩も駆使しながら、神秘を指し示す様々な哲学を語り出すことになる。
哲学は決して、温もりのない冷徹な論理構造物なだけではない。そこに温もりを宿すこともあるのだ。























