「政治、」を広辞苑で引くと、こう書かれている。
「①まつりごと ②(politics; government)人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象。主として国家の統治作用を指すが、それ以外の社会集団および集団間にもこの概念は適用できる。」
 前者の「まつりごと」という言葉は、政治を意味する日本の大和言葉そのものであるが、では、これをさらに広辞苑で引くと、次のように定義されている。
①祭祀権者が祭祀を行うこと。祭祀。
②主権者が領土・人民を統治すること。
 つまり、政治とは結局、「祭祀」(神や祖先をまつること:広辞苑より)である。
 こう言うと、「確かに語源はそうかもしれないが、今の政治と神や祖先は関係ない。現代における政治とは、あくまでも広辞苑の第二定義である『権力・政策・支配・自治にかかわる現象』だろう」と、即座に考える方は多いと思う。
 しかし、まつりごと=祭祀の定義に出てくる「神」という言葉を宗教哲学的に考えれば、必ずしもそうではないという実態が見えてくる。
 「神」を再び広辞苑で引けば、第一の定義がこうである。「人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以てはかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの。」
 つまり政治=まつりごととは、このような我々に禍福を下ろす人知を超えた超越者をまつることだと、日本語の語源が意味しているわけだ。
 われわれ日本国民は今、長期の経済低迷に苛まれ、極東の複雑な地政学リスクに直面し、アメリカのトランプ革命に翻弄され、来たるべく「第2のリーマンショック」というべき深刻な世界的リスク、そして、首都直下地震や南海トラフ地震等の深刻な国難級の巨大災害リスクに怯えながら生きている。
 無論それぞれのリスクの背景には国際政治的リアリズムがあり、経済学的マクロ経済メカニズムや地球物理学的メカニズムがある。しかし、国際政治的リアリズムを動かしているのは、それぞれの国の誇りや理想、そして宗教があり、マクロ経済や地球物理のメカニズムの根幹にある諸法則は、人間が「発明」「設計」したものではない。
 マクロ経済メカニズムは、人々がそれぞれ経済活動に従事し、それが複雑に絡み合って自ずと立ち上がるものである。地球物理学的メカニズムは、まさに人類が誕生する何十億年、百数十億年も前から、この宇宙に存在していたものである。そして何よりわれわれ人類は、国際政治やマクロ経済や地球物理学の全容を全て解明したわけではない。例えばわれわれ大学の研究者は、無尽蔵に広がる無知の世界の砂粒一つ一つを対象に四苦八苦しながら研究し、論文を公表しているに過ぎない。
 すなわち、われわれ日本人が直面している世界は、文字通り「人知を超えたメカニズム」によって突き動かされているのだ。
 われわれ日本人は決してそれを「神」という言葉で表現することはないが、「人間を超越した威力を持つ、かくれた存在」であり「人知を以てはかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる」ものであり、「人間が畏怖」する対象なのだ。
 現代人はそれを「信仰の対象」にすることはないが、その点を除けばそれは「神」の広辞苑的定義とほぼ共通するのだ。後はそれを「信仰」の対象にするかしないかだけの違いなのだ。
 しかし、真面目な研究者ほど、明確な「信仰」を持つ。その研究対象に「真実」があると信じるからこそ研究に従事し、その真実に、その片鱗だけでも触れることができた時に無常の悦びを感ずる。それは、現代においては「信仰」と呼ぶことはないが、その対象に「真実があると信ずる」心の動きは「神への信仰」(faith)と何ら変わることはない。真面目な学者には、目に見えぬ世界に真実があると信ずる「真実への信仰」がなければ、何ら研究動機を持つことなどできないのだ。
 はたして、今の政治家に、こうした「敬虔」な「信仰心」を持つ者がどれ程いるのだろうか? 
 それは無論、特定の宗教の信徒であることがどれ程いるのかを問うているのではない。心の形において、われわれの日本が直面しているあらゆる危機をもたらしている「メカニズム」が人知を超えたものであり、それにも関わらず、その予測も制御もその全容を把握することすら不能な危機に対峙し、刹那刹那の国家全体の命運に関わる判断を一つ一つ重ねていく――この不可能事を可能とせしめるには、「真面目な研究者」が持つような「真実」ないしは「正義」に対する「信仰」を持たねばならない。そうでなければ、不真面目な学者が何一つまともな研究ができないように、何一つまっとうな国家的判断を下すことなど、できなくなってしまうのである。
 政治家に求められるのは、こうした正義や公正に対する誠実で真摯な信仰心なのだ。そもそも、哲学者が歴史上何度も繰り返してきたように、学者が希求する「真」は、政治家が希求すべき「善」と位相を異にしてはいるものの、結局は唯一の絶対的なるものだからだ。