かつては「あの国が欲しい」と言って戦争を仕掛ける時代もあったが、現在では何か特別の理由を立てないと他の国からも批判されるので、納得性のあるウソが大切だ。そこで順序が逆になる。まず「あの国と戦争をする」と決めて、それから国民や世界が納得する理由を探す。それでは順序が逆だから、ほとんどがウソになる。
その典型的なものが、2003年にアメリカがイラクを攻めてフセイン大統領を殺害したイラク戦争だ。
この戦争は、アメリカが中東の過激派の攻撃によってニューヨークの貿易センタービルなどが破壊され、多大の犠牲者を出したことによる国内の不満を解消するためのものであり、アメリカの利害が地球の裏側の小国イラクに攻撃されたり、不利を受けたりしていたわけではなかった。
まず、ブッシュ大統領がイラクを攻めることを決めて、主として国務省でその理由を考えた。順序が逆なので、やがてその理由はウソであることがわかるのだが、当時は「イラクが大量破壊兵器を作り、過激派に渡そうとしている」と国務省が発表し、戦争が始まった。
もちろん、アメリカが勝利し、フセイン大統領を形式的な裁判で死刑にした後、イラク全土を調べたが、大量破壊兵器を製造していた証拠は見つからなかった。実はこの時、筆者の実験装置(平和利用に限定された核燃料製造装置)が見つかったとの連絡を受けた。
でも、このようなことはイラク戦争ばかりではない。今回のイスラエル・イラン戦争も同じだ。アメリカのイラン核物質施設の爆撃も、停戦に至る経過も実に怪しげである。
しかし、世界はまるで「戦争にウソは当然だ」と思っているような反応を見せたし、第一、イランの核施設はヨーロッパ(ウレンコと称する国際製造機関でフランス、ドイツが中心)がイランに遠心分離機を売り、それを使ったからという理由だから、事件全体がマッチポンプ的でもある。
発電コストのウソ
ところで、本稿の主題は「戦争とウソ」ではなく、「ビジネスとウソ」である。
最近は、日本のビジネスの多くが「温暖化を防止するため」という理由で推進しているのが多い。
例えばその1つに「火力発電の代わりにCO2を出さない原子力発電に切り替えるべき」という政策がある。
発電の方法にはいろいろあるが、それぞれの発電方法でどのくらいのCO2を出すかという計算は昔からあって、ほぼ発電コストに見合ったCO2を出すことがわかっている。それは当然で、もともと発電に使う燃料も、設備もそのコストの大半は石油の消費量に依存しているからである。
例えば、石油火力発電所は、主として地下に眠っている鉄鉱石をコークスなどの炭素源を使って還元し、CO2を出して鉄を作る。発電所の敷地を整備するにしても、建設機械がガソリンを使いながら整地をする。さらに発電をするときには、燃料として石油を使うから、それらがコストになり、そして〝KWH当たりのCO2発生量〟となる。
同じく、原子力発電では設備に使う鉄鋼は鉄鉱石とコークスによって作られ、セメントはセメント会社のキルンで、膨大なCO2を出しながら製品を得る。ウラン燃料を作る時も多大のエネルギーを使って、ウランの濃縮物を作り、それを利用し膨大な設備で廃棄物を処理する。したがって、この場合もKWH当たりのCO2の発生量は、ほぼ発電コストと等しくなる。
ところが、日本のニュースでは「CO2を出す石油火力発電所を止めて、CO2を出さない原子力発電所に切り替えるのが望ましい」と報道され、みんなが納得している。これは太陽光発電や風力発電でもほぼ同様な説明であり、まるで「裸の王様」の物語を聞くようだ。
筆者は「このような表現は国民に誤解を与えるので、発電方法によるCO2の発生量については、KWH当たりのCO2発生量で示す必要がある」と言ってきた。特に原子力委員会の専門委員として仕事をしていた時は、それを強く主張したものである。
これに対し政府側は、「発電によってCO2を出す量は、発電する時に限定すべきであり、発電設備を作るとか、その後の廃棄物の処理をするなどは含ませるべきではないと」いう態度で一貫していた。
「国の政策だから、合理的な計算は不要である」ということであるが、ビジネスとして考えた場合、不合理な計算をしても収益は得られない。それは、ビジネスが冷静沈着なものであり、不合理な過程をおいて計算を行っても、全体のコストに対して責任を持たねばならないからだ。不合理が成立しないのは、当然のことである。
最近のビジネス
しかし、イスラエル・イラン戦争と同様に、最近ではビジネスも空洞化、もしくは政治主導が強化されたからか、必ずしも高度成長時代の日本のように、ビジネスが〝事実に基づいて発展していく〟という形から逸脱しているように見受けられる。
これが冷静沈着であるべきビジネスを進めていく上で、本当に有意義なことであろうか。このようなことを続けていたら、日本の沈没が避けられないのではなかろうか。それはやがて日本の工業の姿として顕在化してくるであろう。























