そもそも、87年の閣議決定で生涯学習が文部省の基本政策として位置づけられ、先述した生涯学習振興法では政策の方針を議論する生涯学習審議会が創設されたのだが、その委員には関係各省庁から推薦を受けた学識経験者が1名ずつ任命されていた。つまり、文部省関係者だけで議論するのでなく各省庁の政策に詳しい識者が加わっていたのである。それゆえ、文部省が進める生涯学習政策には各省庁の応援が得られたし、各省庁の政策に対し文部省が力を貸すことも常態化するようになった。
ことに、国民生活に深く関与しているという意味で「同志」関係にある厚生省、労働省(現・厚生労働省)とは、厚生・文部、労働・文部の中堅官僚共同勉強会や人事交流が積極的に行われた。
厚生省が看護師の資質向上を目指して国立病院付属の看護婦養成所を大学レベルの「国立看護大学校」に格上げし、「日本の4年制看護基礎教育のモデル校」を目指す政策を打ち出したとき、文部省医学教育課長だったわたしは積極的にこれを支援した。そして両者を繋いでくれたのは、大蔵省(現・財務省)主計局の厚生省担当主計官なのだった。
前々回紹介した第二次臨時行政調査会(第二臨調)答申の前だったらあり得ないことだ。大学政策は文部省の、看護政策は厚生省の所管するものだとして、両者が面子を賭ける「縄張り争い」が繰り広げられたに違いない。
防衛庁の防衛大学校、労働省の職業訓練大学校などの各省庁所管大学校に、文部省は、大学卒業者が得る学士という学位を頑なに認めてこなかった。それが、ゼロ・シーロングや政策官庁への脱皮を求めた第二臨調答申に基づく各省協調路線で、91年には認められることになる。これも、「いつでも、どこでも、誰でも学べる」社会を作ろうという生涯学習政策の産物だ。
革新派役人たちの志
シーリング(天井)のない「青天井」で予算膨張していた第二臨調以前のころには、行政は国民の要求や欲求に応える方向で動いてきた。しかしゼロ・シーロングの時代には、消費税、介護保険などの国民に新たな負担を求めざるを得ない政策を打ち出さざるを得ないことになる。
こうした政策を納得してもらうためには、担当省庁だけの範囲でできる説明では通用しない。政府全体が一丸となる覚悟で、「この省庁の政策によって生じる負担があることによって、別の省庁が新しく打ち出す政策の恩恵が受けられる」という社会全体にわたる大きな構図を示して、初めて説得力を持つのである。つまり、大蔵省による消費税導入は新たな負担だが、それによって厚生省の所管する高齢者に対する福祉政策が安定・充実するとの論理だ。
バブル経済崩壊後、もはや経済成長の夢に酔うわけにはいかなくなった社会をどうするか、明確な政治目標や国家政策があったわけではないが、ヒントは臨時教育審議会答申でも使われた「成熟社会」という言葉にあるだろう。これまでの物質万能主義を排し、ひたすら量的拡大のみを追い求める経済成長やそれに支えられた大量消費社会のかわりに、高水準の物質文明と共存しつつも、精神的な豊かさや生活の質の向上を最優先させるような、平和で自由な社会を意味している。
当時の革新派の役人たちの頭にあったのは、漠然とではあろうがこうした考え方だったと思う。生涯学習の原点もそこにあったし、労働、医療、介護などさまざまな分野で模索された「質の向上」も、これに符合していた。
また、国民の間にも、バブルの熱狂から醒め、自分たちも積極的に社会を変えるため公共を担っていこうとの機運が出ていた。長らく続いた自民党一党支配の55年体制を崩した93年衆議院選挙の結果による細川護熙首相の細川連立政権は、そうした民意を反映したものだろう。また95年の阪神大震災では、それまでではあり得なかった夥しい数の市民ボランティアが出現し、「ボランティア元年」と呼ばれ、今に至るボランティア社会を確立させるきっかけとなった。
明らかに、時代は成熟社会へと向かう方向にあったのだ。
しかし、それは21世紀に入る頃、大きく変転する…。
(以下続く)























