前回書いた通り、1980年代の前半に導入されたゼロ・シーリングの予算編成は、霞が関の仕事のやり方に甚大な影響を与えた。
 『官僚たちの夏』の時代のように、大蔵省(現・財務省)に新しい政策の必要性を認めてもらえさえすれば相応の予算がつくのではなく、新規事業を始めるためには、それまでの事業に関する予算を同額程度削らなければならないのである。新規大規模事業の場合は、その省庁だけでなく他省庁の予算を減額することになる可能性さえあった。
 それまでだと、自分の役所の中だけで考えれば良かったのが、他省庁との摺り合わせも必要になってくる。前回書いた、大蔵省時代の岸本周平前和歌山県知事と出会うきっかけとなった「生涯学習振興法」も、彼の助言に従って通産省(現・経産省)と組み、両省共管の法律として国会へ提出するに当たっては、厚生省、労働省(現・厚労省)、郵政省(現・総務省)、農水省など多くの省庁との長期にわたる協議が必要だった。
 たしかに、それは厄介な作業であり、夜を徹する交渉の連続になった苦労は忘れられない。しかし、その作業は無駄ではなかった。法律が成立した後は、文部省と通産省だけでなく、霞が関のほとんど全部の省庁が生涯学習政策に関与し、それぞれの予算を使ってこれに関連する事業を実施してくれたのである。
 典型的なのは、92年の小中高等学校の「学校週5日制」導入だ。週5日制は子どもを学校だけで過ごさせるのでなく、土日の2日間は家庭や地域社会での学びに親しんでもらおうというのだ。それまでの子どもたちは学校で知識を詰め込まれる一方であり、学ぶことが嫌いになったり、そうでなくても高校までの勉強漬けの反動で大学では遊んでばかりだったりのありさまだった。これでは、生涯にわたって学ぶ喜びを味わい自らの生き甲斐としていく生涯学習の方向へは進めない。
 生涯学習という政策を提案した臨時教育審議会の中曽根康弘首相への答申の中でも、学校週5日制の早期実施が求められていたのは、そういう理由だった。ただ、明治初頭に学校制度が始まって以来続いてきた6日制を変えるのにはかなりの準備期間を要すると思われ、長期戦を覚悟していた。それが、92年3月、突如政治の力で決定されたのである。どうやら、アメリカからの対日要求で勤労者の週休2日制を徹底しなければならなくなったことや、教師の週休2日制を求める社会党との取引の結果だったと思われる。
 既に4月からの新学年が始まる直前だった。それゆえ学年始めからの実施は不可能であり、2学期初めの第2土曜日である9月12日からという変則体制となる。急な話に、保護者の皆さんの当惑は当然だった。週休2日時代とはいえ、必ずしも土曜が休みとは限らない。サービス業、小売業などでは平日が休日のところも多かった。学校の代わりに家庭と地域社会、といっても家庭の対応が難しい場合も多い。
 図書館、美術館、博物館、公民館などの社会教育施設をフル回転させるのはもちろんだったが、それだけでは到底足りない。実施初日に子どもたちの行き場がないのでは大失敗だ。とはいえ、急な決定で予算措置は全くなされていない。頼りは他省庁と民間企業だ。連日各所を訪問し、9月12日に子どものための事業をお願いに回った。
 岸本さんを通して大蔵省に依頼すると、子どものための租税や金融についての学習の場設営がすぐに決まった。農水省は農林水産業教室、建設省(現・国土交通省)は工事現場の見学ツアー、環境庁(現・環境省)は国立公園などで自然や環境を学ぶ教室…という具合に、全国各地で自らの所掌事務を子どもたちに親しんでもらう場を用意してくれる。通産省も、各種民間企業に呼びかけてさまざまなイベントを企画させた。おかげで、当日は全国津々浦々に子どもたちの体験や学びの場に事欠かない状況が生まれたのである。全省庁が協力して子どもたちのために動く、という前代未聞の日となった。これも、岸本さんたち大蔵省の若手官僚が中心になって提唱した各省庁協調態勢の成果だったと言えよう。
 もちろん、これだけではない。90年代の霞が関では、そうした協力関係が次々と生まれていった。厚生省の介護保険制度、農水省の農林水産業振興、環境庁の環境保全政策…等々さまざまな政策実施に他省庁の協力が伴っている。よく言われる省庁間の「縄張り争い」は不毛の結果しか生まなかったが、この時期における協力姿勢は、同時に、それに携わる官僚同士の人間関係を濃密にし、省庁の垣根を越えた政策議論が活発に行われるようになった。
 社会構造が複雑になる一方の中で、単一の省庁だけでは解決できない政策課題もどんどん出てきていた。それに対応する霞が関を作る、という岸本周平の野望は、わたしたち当時の若手官僚の間に急速に広がっていきつつあったのである。                  (以下続く)