父が1968年に製版業者として起業。父の代の時にはデザインはしていなかったのですが、それでも社名を「〇〇製版」とかではなく「シャチ工芸社」としたのは、いずれは製版以外のことも手掛けたいという思いがあったからのようです。
創業当時、近隣には大きめの印刷業者が何件かあり、そこに版をつくって納める下請け仕事がほとんどだったようですが、現在は印刷業者ではない一般の方からの仕事がかなり増えて、 下請け仕事は全体の2割くらいに。取引先もかつては10数社くらいだったのが、今は150社以上あり、仕事がすごく細かく分散されてきた感じです。
この業界、どう生き残っていくかが大変。うちは「必要な時、必要な分だけ」という方針を掲げて生き延びています。例えば「こういうのを作りたい」といってお客さんが来たときに、過剰にページ数を増やそうとしたり、不必要に高額な紙を勧めたりはせず、目的に合った提案をし、印刷する数も、200とか500とかキリのいい数字ではなく、本当に必要な数を印刷します。「そんなに細かい数でいいの?」と驚かれますが、余ったら捨てることになって資源の無駄ですし、環境のことを考えてもロスをなくしたほうがいい。そのスタンスのため、次もうちに頼もうと思っていただけるようです。
修業先と同友会での学び
僕は73年生まれで、自宅での操業を見て育ちました。高校生となったころはコンピューターを使った製版が出始めていた時期で、専門学校に進んだ後、大阪の印刷会社に3年という期限を決めて修業に行くことに。そしてこちらに戻り、デジタル化を進めたのが最初の仕事みたいな感じでした。古参社員さんもいましたから軋轢もありましたが、最初の5年くらいをなんとか突っ走りました。
大阪の会社では、そのためのデジタル技術的な知識を確かに学べましたが、一番は働く楽しさを知ったこと。出来上がった印刷物に対して「うん、いいな」とか「ありがとう」って言われたことで、社会人としての土台とともに、印刷という仕事のやりがいも勉強させてもらったと思っています。
そして同友会では印刷物を作る意味を教えてもらいました。
昨今はWEB発信の情報があふれてていますが、業績にしろ創業年にしろ、アップした後でも簡単に書き換えられます。一方、印刷物として刷ったものは配布した後で変えることは絶対にできません。そのことを僕はずっと〝弱み〟だと思っていたのですが、同友会の先輩経営者に、「見方を変えよう」と言われたんです。「変えられない分、慎重に作るから、そこに載っている情報は信用度が高いものだろう。その信用を売れ」と。
修正の利きかない物を作る〝アナログの強さ〟、そしてお客さまの情報を印刷して残すのがうちの仕事だと気づきました。
実はうちではもう10年以上、新入社員を採用しておらず、従業員の高齢化が進んでいます。そして、僕、子供は娘2人なんです。そこで少し前までは、事業をどうフェードアウトしていこうかと考えていました。
でも長女が、学校が休みの日とかに僕がデザインなどをしているのを見て、「やりたい」と。うれしかったですねえ。まだ高校生なので、これからほかにやりたいことができるかもしれませんが、本当に継ぐことになった時に、ちゃんと渡すことができるようにしなければと、将来設計が変わりました。
そのために、印刷物の良さと強みを伝えていくことも、今やるべきことだと思っています。























