千田 生まれは豊田市ですが、父がもともと名古屋大学に勤めていて、私が生まれたころは豊田高専の先生をしていたのですが、小学校6年生の途中で父が名古屋大学に戻り、私はそこから名古屋の子になりました。
―― 名市大の高等教育院教授に就任された翌年、なごや学研究センター長に就任されていますが、どのような組織ですか?
千田 名市大では以前から人文社会学部の歴史、文化、経済の研究者を結集して「名古屋学」という専門科目を開講。そうして行ってきた名古屋研究と、近世名古屋学講座の教授として招かれた私の城郭研究を結び付け、名古屋の歴史的・文化的ルーツを深く研究する組織として発足。学際的にいろんな分野から名古屋を考え、研究し、名古屋の魅力を発見・発信するためのセンターです。
―― 公開講座の開催もそのために。
千田 はい、設立以来、年2回ペースで開催しています。ですが名古屋を褒めてばかりではありません。「これではダメです」と厳しいこともほとんど毎回言っています。公開講座には名古屋市の幹部の方々も参加されて一緒に議論。彼らに対して、大学として、また研究者として、提言しています。
―― 名古屋市への苦言というと、例えば?
千田 名古屋は日本屈指の工業都市といいますか、モノづくりの町ですよね。その点では非常に力のある都市ですし、経済力も非常に大きいと思うんです。ところが「見に行くところがない」「魅力がない」「名古屋は飛ばす」とか、イメージはあまりいいものではないですよね。
それはなぜか。名古屋には決定的な弱点があるからです。歴史や文化を町の力に変換していくことへの努力や発想が、今まではちょっと欠けていたと思います。
ただし、観光という視点だけでは「人が来ればいい」というだけになってしまいがち。そうではなく、学術の立場から「こういうところに価値がある」と発信することで、歴史や文化の力で名古屋の魅力を高め、市民にも改めて名古屋の良さ、面白さを再発見していただく。そしてその〝もと〟の研究を、「なごや学研究センター」でできたらと思っております。
名古屋が持つ宝
―― 名古屋で先生の専門分野である「城」と言えば名古屋城。残念ながら天守などの建物は第二次世界大戦末期の大空襲で焼け落ちてしまいましたが、本来は国宝第1号に制定されたほどのものだったようですね。
千田 尾張徳川家の城として、家康が諸大名に「天下普請」を命令。西日本を中心に20藩にもおよぶ大名が工事を分担し、堀を掘ったり石垣を作ったりしてつくられた城です。そこには家康の築城技術のすべてが注がれ、規模も空前・破格。最強の天守曲輪を本丸全体で実現し、当時最先端の守りの工夫と、尾張藩の政庁として必要な本丸御殿の規模と格式を両立させた、まさに理想の城でした。
―― 城のシンボルともいえる天守は1958年に再建された鉄筋コンクリート造りですが、城内の主要建築物の一つであった本丸御殿は、2018年に木造での完全復元がかないました。
千田 素晴らしいことです。実は名古屋城の本丸御殿というのは非常に特殊な建物なんですよ。
もともとは尾張徳川家の殿様のための御殿だったのですが、江戸時代の初め、三代将軍家光の時代までは将軍が何度も京都へ行っていました。そこで途中にある名古屋城に毎回泊まったんです。そこで本丸御殿はそうした際に将軍にお泊まりいただく御殿ということにして、尾張藩主は二の丸にもうひとつ御殿を作り、そちらに暮らすようになったんです。
尾張徳川家はそれ以後も、将軍様がいつ来てもいいようにと、本丸御殿の維持管理を続けていきます。そして明治になると、今度は天皇家の離宮として使われることになり、洋風な暮らしに合うように改修しようと、建物の図面がつくられました。
尾張徳川家と宮内庁だからこそ、江戸時代初期から明治を経ての変化、太平洋戦争で焼けてしまうまでの様子が、ものすごくよく分かっているんです。
―― 尾張徳川家の威光は徳川園内にある美術館や庭園などから今も知ることができますね。
千田 ええ、名古屋がさらにすごいのは、尾張徳川家に伝わってきた美術品から古文書、絵図などが散逸せず、しかもそれらが全部、地元にあるということです。これはもう、他にはないこと。江戸の将軍家のものも一ヵ所にまとまってはいませんし、水戸家も紀州徳川家も、すべてが地元にそろってはいません。
―― なぜそれが可能だったのでしょう。
千田 尾張徳川家が1935年にいち早く美術館を開設し、その所蔵品とすることで、美術品と史料を守ったのです。そして美術館の横には「蓬左文庫」がありますが、あれは名古屋城内にあった同家の書物庫「御文庫」を1912年に徳川義親が命名したもので、戦後、尾張徳川家がピンチに陥った時、当時の名古屋市は立派で、古文書とか絵図を買い取り、そこで保管・公開することになったんです。ですから、今も全部地元にある。日本の近世武家文化を知る上で一番いいのは、実は名古屋なんです。
金沢との大きな差
―― 一方、名古屋城内の史跡保存は、残念な部分が多々あるようですね。戦後に二の丸の場所に建てられた旧愛知県体育館しかり、さらにはその移転先も…。
千田 名古屋城の北には、かつて「下御深井御庭」という兼六園の4倍もの規模を持つ日本屈指の大名庭園がありました。新しい愛知県体育館「IGアリーナ」が作られた場所もその一部なんです。ですから本来はそこに建てるべきではありませんでした。
―― その大名庭園が、移転先の候補となるような場所になるまでには、どのような変遷が?
千田 明治の初めまでは大庭園が残っていたのですが、ご承知のようにやがて軍国時代が到来。お城に軍隊が入ってきて「練兵場がいる」となりました。最初は三の丸の中を使っていたようですが、やがて「広さが足りない」と、下御深井御庭の池とかを埋めて平らな広い場所を作り、それを練兵場にしたんです。
―― 終戦で状況は変わったと思われますが。
千田 ええ、埋めた土を取り除けば、お庭の跡がそのまま残っています。でも、そこが名古屋の〝文化力〟の弱いところ。戦後、軍隊がいなくなったあと、当時の市民だって市役所の人だって、あそこが大名庭園だったことは、まあ知ってる人は相当いたと思うんですけど、元の大名庭園に戻さず、その上に「名城公園」という西洋風の都市公園を作ってしまいました。そして今に至ります。
しかも、遺跡としての登録をしていなかったので、北側は今回の県体育館移転先となりましたし、東側は愛知学院大学などが建てられて壊滅しました。
それでもまだ、名城公園の地下には、庭園や池の中心部分などの大事なところは残っているはずなんです。
―― これからの取り組み次第で、部分的ではあるけれど、大名庭園をよみがえらせることは可能だということですね。
千田 そうです。そして名古屋はこれまで戦後の時もですが、名古屋が誇る近世の大庭園を取り戻すチャンスを逃してきたのです。
それに対して石川県の金沢は違いました。今、北陸新幹線も通って、城下町の風情が感じられる町ということで外国の人を含めて大人気ですよね。けれどもそれは、戦争の被害に遭わなかったからだろうとか言う人もいますが、それだけではありません。実は金沢城の「玉泉院丸庭園」というところは、戦後に石川県立体育館が建てられて、一度は全部壊されてしまったんです。
―― 戦後の風潮なのか、金沢でも名古屋と同じようなことが…。
千田 ええ、しかし石川県はその後、「体育館をこんなところに建てておくべきではない」と判断し、体育館を城の外へと移転。その後、発掘調査を行い、素晴らしい大名庭園を見事よみがえらせています。一方、愛知県と名古屋市はそのような対応せず、この差は大きいです。
城郭考古学を提唱
――ところで先生がお城に魅了されたきっかけは。
千田 中学一年生の時に姫路城を見て感動。「東海古城研究会」という、今も存在する民間の愛好団体に入れてもらったんです。
会員は40、50代の方や、もうリタイアされた方たち。中学生の私は年齢的に息子や孫みたいなものですから、すごくかわいがっていただいて、当時は携帯電話なんてありませんから家の電話に年齢差50歳くらいのお友達から「嘉博君をお願いします」ってかかってきて、「今度の日曜日、〇〇城にいかないか」「じゃあ、△△駅で集合ね」って誘っていただいた。
城跡って中世のものも含めると愛知県内だけでも1000ヵ所を超えるんですよ。そのほとんどは全然整備されていない藪の中のようなところ。そういう石垣もないような城跡を中学生の時から訪ね歩いていましたので、大学の進学先を考える時、考古学で城のことを勉強したいなと。
―― それで奈良大学に?
千田 ええ、名古屋大学附属の中学・高校に通いましたから、名古屋大学の敷地に6年間いたのだけれど、そこへの進学はかすりもしませんでした(笑)。
もちろん各地の大学に考古学はありましたけど、 当時、考古学というのは縄文時代とか弥生時代といった故人の資料のない時代を研究する学問という認識で、考古学でお城を研究するという学問分野自体がなかったんです。でも奈良大学にはわりと新しい時代のこともやっておられる先生がいて、そこで勉強させていただくことになりました。
―― 今、先生は「城郭考古学者」を名乗られていますね。
千田 これには理由があります。お城の研究って、実は非常に難しいんです。 例えば天守、御殿、櫓とかは建物ですから、これは建築の歴史を研究する分野です。またお城にはたくさんの絵図が残っていますが、これは地理学の分野。堀とか本丸の跡なんかは遺跡ですから本来で言えば考古学の分野。さらに中世・近世の時代になると古文書がたくさんあって、それは文学の専門家がやるところ――というふうに、いくつもの分野にまたがることをしないと、その城の本当の姿は分からないわけです。
でも従来は城の研究を分野ごとにバラバラにやっていたので、関連分野を総合し、調べたり、考えたり、整備したり、活用したりしていく学問が必要だと、城郭考古学というのを提唱したというわけです。
―― 「なごや学研究センター」では、まさに学際的な研究が進みそうですね。
千田 そうなんです。しかもこの地域にはお城がもう、めちゃくちゃあります。 でも一般に知られている城はごく一部で、大部分は、「こんなすごいものが地元にあったのか、知らなかった」という状況。ですから、研究する対象が無限にある。もう、研究し放題です。
世界に胸を張れる復元を
――名古屋城の今後の整備についてもお聞きします。
千田 名古屋市がその保存活用計画で宣言されたように、木造での天守と本来の本丸御殿を両方ですね、体験できるっていうことになれば、まさに当時の、本来の江戸時代のお城の本丸の様子を体験できる日本唯一の城になります。 これはやっぱり価値があるというふうに私も考えていて、大いに期待しています。
――しかし、天守の木造復元は難航していますが。
千田 バリアフリーの問題がマスコミで大きく取り上げられていますが、実際には石垣の保全と復元設計の学術的正確性が主な問題です。文化庁が気にしているのは、本物の石垣が鉄筋天守の解体工事や木造復元工事で損傷しないかということと、復元される天守の設計が学術的に適切かどうかという点。バリアフリーの問題は、それらが解決した後の、活用計画で論議する課題なんです。
―― すんなり進まないのは。
千田 最初に名古屋市が文科省に「天守を木造でつくる」と言った時、石垣の図面も調査研究組織もない状況。文科省が許可を出す根拠資料がないところから始まったからです。
名古屋市もその後そこに気が付いて、「名古屋城調査研究センター」という学芸員20人体制の、城専属の調査研究機関としては日本最大と言っていい組織を作りました。そこはさすが政令指定都市ですね。そうして石垣の調査や発掘調査を10年かけてやってきたので、今では相当な学術データが蓄積されています。
―― ではこれからの進展に期待したいものです。復元の実現も、その後のバリアフリーなどの課題解決も。
千田 史跡に復元建物を作るときに、一定の合理的なバリアフリーの措置を取ること、アクセシビリティを確保することは、もう世界では当然のことで、それをしないことはあり得ません。イタリアのコロッセオにもエレベーターが付いていますし、 ポンペイには本物の道を残しながら車椅子がちゃんと通れる見学路の整備が実現しています。世界遺産になってるようなヨーロッパのお城でも、エレベーターやスロープをつけるのはもう当然のことなんです。
天守のことだけではなく、名古屋市あるいは名古屋市民が見落としていることって非常に大きいでしょう。世界のお城の整備がどういう方向に進んでいっているかを知らないと、「エレベーターをつけなくて何が悪いんだ」になってしまいます。そういった意味でも、なごや学研究センターが、学問的な研究成果と市役所や市民をつないでいきたいです。
市役所の方々も頑張っていますが、大学だからこそ発信できたり提言できたりすることがあると思ってます。それによって名古屋がよくなればと思いますし、「名古屋に行こう」「名古屋に行ってよかった」と言ってもらえる街にできると思っています。
―― 先生となごや学研究センターに大いに期待します。


























