今年の参議院選挙では、「ジャパンファースト」を唱える参政党が大躍進を遂げました。
 欧米メディアはこれを「外国人移民」に対する国民的反発を背景とした「極右政党の台頭」という文脈で紹介しているようです。つまり、ドイツのAfDやフランスの国民連合の躍進などと同列に参政党の躍進が語られているわけです。
 欧米、そしてわが国のメディアは、こうした「極右政党の躍進」を批判的に報道するのが一般的ですが、それは先進諸国のマスメディアは概して「リベラル」(自由主義)な思想的立場に立っているからです。
 そうしたリベラルの立場からみれば、外国人移民に対する国民的反発は「排外主義的」であって不道徳で非倫理的な態度だという次第です。
 つまりリベラル主義においては「自由」こそが最も尊重されるべき崇高なるものであり、外国人移民となる自由、移民として外国に住み続ける自由もまた尊重されねばならないという議論が成立するわけです。
 ただし思想的に言えば、「外国人移民に対する反発」は「保守主義」(コンサーバティズム)という立場に立てば正当化し得るものであり、必ずしも不道徳で非倫理的とは限りません。「極右」というのはあくまでも移民に対する国民的反発を不道徳、非倫理的と糾弾したいマスメディアの「レッテル張り」に過ぎないわけです。
 「保守主義」とは、あらゆる共同体(例えば国家や民族)には、母国語を中心とした伝統的文化があり、そしてその共同体の秩序や存続、その共同体の構成員の安寧や幸福にとって伝統的文化は必要不可欠なものであり、それ故に尊重されるべきだと考えます。
 したがって当該の国家の伝統的文化を共有しない外国人移民は、排除されることこそが道徳的、倫理的に正当だという論理が成立します。
 このような「自由」と「伝統」、いずれを尊重するのかの対立は、一般的に「リベラルと保守」と思想的に整理され、日米欧各国の政治的構図の基軸となっています。そしてこの対立図式が最も明確に現れるのが「移民」問題となっているのです。
 ただし、「リベラル」という思想が生まれたのは「近代」になってからです。より具体的に言うならロック、ルソー、モンテスキューらの啓蒙思想家が政治体制についての哲学的議論を展開し、それに影響を受ける形でイギリス名誉革命やフランス革命へとつながっていったのです。
 一方で「保守主義」という思想は、そうしたリベラル思想によって、より具体的に言うならフランス革命によって(「貴族」に対する惨たらしい暴力を中心とした)、さまざまな社会的弊害が生じたことに対する反発ないしは反省として誕生したものです。
 それでは、「リベラル」ならびに、それによって誘発された「保守主義」が誕生する前には、「自由」や「伝統」が無価値だったのかと言えば、もちろんそうではありません。
 前近代社会においても「自由」は貴重な価値であったと同時に、「伝統」もまた重要な価値でした。
 ただし、リベラル思想を生み出した啓蒙思想家たちは、前近代の封建主義体制においては「自由」が相対的に軽視されていたと考えたのです。だから彼らは、ことさら自由の重要性を強調したわけです。
 ですから「超伝統的社会」であった封建主義の前近代において、自由と伝統のバランスを適正化するために生まれたのがリベラルなのです。
 そして前述のようにそのリベラルへの反動の下、生み出されたのが「保守主義」なのですから、本来的にわれわれ人類は、「伝統を無視して自由だけ」を追い求めたり、「自由を無視して伝統だけ」を追い求めたりなどはしてこなかったのです。
 例えばジョン・スチュアート・ミルの『自由論』にせよ、それに大いに触発された福沢諭吉の『学問のすすめ』にせよ、伝統の必要不可欠性は徹底的に議論の前提に置かれており、それはむしろ「保守主義」的ですらあります。
 逆に保守主義の始祖であるエドマンド・バークの「フランス革命の省察」においても、フランス革命の暴力性は徹底的に批判されてはいるものの、自由の価値そのものは全く軽視等されておらず、ある意味極めてリベラルな側面が垣間見れます。
 こうした保守とリベラルは、共に調和を求めるべき思想哲学的態度だと言うことができるのです。こう考えれば、現下の移民問題も排除か共生かという二元対立ではなく、排除と共生の調和、言い換えるなら「排除ある共生、共生ある排除を目指さねばならぬ」という姿勢が求められていると言えるのです。
 決して排除だけを加速したり、共生だけを強要してはならないのです。