前回の外交に続いて、今回は小渕恵三首相時代の内政について振り返ろう。
 1998年7月30日に小渕政権が誕生したとき、実は現在と同様に参議院では与野党逆転の状態だった。そもそも、その半月前に行われた参議院選挙で自民党が惨敗し、過半数を失ったために橋本龍太郎首相が辞任した結果が、小渕を次の首相にしたのである。
 したがって、現在の石破政権や高市政権のように厳しい国会運営を乗り切るのが最大の課題だった。金融再生法案で野党第一党の民主党案を丸呑みせざるを得なかったり、野党の公明党が強く主張する「地域振興券」の導入を行ったり、昨今の政治状況に近いものがある。
 ただ、99年1月には自由党と連立政権を成立させ、10月には公明党も加わる「自自公政権」となり、与党側が過半数を占める状態が実現したことで不安定な政権運営は一段落したと言っていい。そこで、3月には前々回ご紹介した「21世紀日本の構想」懇談会を発足させ、21世紀における社会の在り方を提言してもらうことにより、長期政権の基盤を作ろうという流れになったのだ。
 同時に、それまで永田町の国会状況ばかりを注視しなければならなかったのが、霞が関の中央官庁へも目を向ける余裕が出てきたのだろう。首相官邸から各省庁に、自らの役所の現時点における最重要事項を事務次官からレクチュアしてほしいとの依頼が回った。01年の省庁再編で1府12省庁となる前の1府22省庁だったから、全ての省庁が呼ばれたかどうかはわからないが、かなりの数の事務次官がご説明したと思う。
 わたしが在籍してた文部省(当時)では、佐藤禎一事務次官が首相官邸を訪ねた。
 現在は首相公邸となっている古い建物の時代である。大きな会議室に沢山の随行や記者が集まるような場ではない。狭い会議室で、小渕首相と細川興一筆頭秘書官の2人だけが聞き手、話し手は佐藤次官1人だ。わたしは、当時、省内の政策を取りまとめる大臣官房政策課長だったので、あくまで1名だけ許された随行者としてその場に居ることができた。もちろん発言など一切できず、持参の資料をお渡しするくらいしか役目はない。
 普通なら大きなテーブルを挟み衆人居並ぶ中で聴くところを、秘書官さえ、自らが最も信頼する筆頭秘書官しか側に置かず、応接セットくらいの小さなテーブルを挟んで省庁の事務次官と差し向かいになる。そして、その役所が今、最も重要な案件として取り組んでいる政策の説明を聴取するのだ。通り一遍の所管事項説明とは違い、次官は首相のリアクションを眼前で捉え、直接の質問に答えていく。
 小渕首相は、自分の言葉で疑問を質し、自分が理解できるまで傾聴した。傍聴しているわたしは、この総理は真剣に役人の話を聞き、反対なら制止し賛成なら応援しようと考えているのだな、と感じた。言うまでもなく、首相は行政府の長ではあるが、「ワンマン社長」ではなく、部下の話をよく聞いて判断し、その責任は己で負うつもりなのだな、と拝察したのである。
 その予感は的中する。
 次官が挙げた最重要案件は、2年半後に迫る02年4月からの新しい教育課程の実施だった。前々回触れたように中曽根康弘首相が設けた臨時教育審議会の提言である「生涯学習社会への移行」という21世紀へ向けての教育改革方針を、いよいよ小中高等学校段階から具体的に始めていくのである。
 そのころはまだ、「ゆとり教育」なるレッテルは貼られておらず世間からの反対の声もそれほどではなかったものの、いずれ大きな困難が立ちはだかるだろうことは予測しており、だからこそ省を挙げた最重要政策に掲げていたのだ。なにしろ、明治の学校制度発足以来130年続いてきた「学校や教師による教育」を基盤とする考え方を、「児童生徒が学習するための教育」に切り替え、子どもたちに自ら考え自ら学ぶ姿勢を推奨しようというのだから、従来型の教育が当たり前と思っている大人世代からの反発や心配は容易に予想できた。
 実際、02年4月からのスタートが近づくにつれ、そんなことすると必ず日本の子どもの学力が低下すると決めつける「ゆとり教育」批判がマスコミや世論で渦を巻き、厳しい局面を迎える羽目になる。
 しかし、そうした逆風は覚悟の上で、一人一人の個性に沿った学びを提供することこそ、順調に経済成長した20世紀とは異なり予測不能の事態が起こり得る不確実性の時代になると臨時教育審議会が未来予測した21世紀に必要だというのが「生涯学習社会への移行」という新しい発想だった。
 さて、説明を聴いた小渕首相はどう受け止めたか。そしてどういう行動に出たか。小渕時代を語る最終回となる次回に明かしたい。